2010年9月17日 (金)

7 1920年代の豪邸

豪邸と豪華なコレクション
 ダウンタウンの西側、メモリアルDr. を進んだところに、BAYOU BEND (1 WEATCOTT STREET,OFF MEMORIAL DRIVE:1927ー28年)という、ファインアート美術館の管轄する建物がある。

 もとは、地元出身初のテキサス州知事であったSTEPHAN FOGGSの息子と娘である、WILLIAM C.,MICHEAL とMISS EMAによって建てられた豪邸である。  建物は、ヒューストンの建築家JOHN C.STAUBによるもので、ニューオーリンズの合金とスペインの影響をダビングしたラテンコロニアルである。
 MISS EMAは、美術品のコレクターとして知られており、この建物の中に家具のコレクションが展示してある。
 彼女は父親が州知事だった子供時代、オースチンの州知事公邸(THE GOVENERS MANTION:1854~1856年)に住んでおり、テキサス独立戦争の英雄であるサム・ヒューストン将軍由来のマホガニーのベッドを使っていたMiss Emaは、歴史のある古いものに惹かれ、17世紀から19世紀のアメリカの家具の収集を行ったといわれている。
 BAYOU BENDは、MISS EMAの監修のもと、ファインアーツ美術館のコレクションとして、1966年に開館した。
建物もさることながら、庭も広く整備されていて、アザレア(つつじ)の季節にはとくに美しい。

 また、1920年代には、この近郊で、大きく壮麗な住宅地、RIVER ORKSの開発が始まった。
 現在もRIVER ORKS BOULEVARD には、当時の20年代のものから近代のものまで、豪邸が軒を並べ、深い日陰の芝生の奥に鎮座している。
 KIRBYを北に行き、ちょっとはずれた蛇行したLAZY LANE(地図で見ると、RIVER OAKS C.C.の横あたり)などにも大きな屋敷が並ぶが、木がうっそうとして、土地も広すぎて、道から屋敷の様子をうかがうことは難しい。
 
 しかし毎年3月にはアザレアトレイルという、お屋敷が一般公開される催し(年によって家が変わる)があり、公開された家の中を拝見できるチャンスがある。それぞれの住宅の広さやこだわりには圧倒されるばかりである。

 1999年の春には、新しくファインアート美術館に寄付をされた、リバーオークスの豪邸、RIENZI (1406 KIRBY)の家と庭が公開された。
 (BAYOU BENDと同じくSTAUBの設計による)
*RIVER OAKS BLVDには、1950年代にできたモールがあり、その中にANDRE'S というレストランがあります。(2515 RIVER OAKS BLVD、WESTHEIMER沿い)  朝食とランチのみでディナーはないのですが、日替わりで5~6種類選べるランチは上品でデザートがセットになり税、チップ込みで11ドルくらいです。地元の優雅なご婦人達の憩いの場となっています。

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6 テキサスメディカルセンターの誕生

*HARMANN HOSPITAL(6411 FANNIN ST)
 現在、病院や研究所としては世界最大級のテキサス・メディカル・センターには、病院や医科大学、看護学校など40余りの医療関係機関が集まっている。そして、なんと一日平均11万人近くの患者が来るということである。
 センター内には日本人を含め、世界各地からの研究者が働いている。
 また、敷地内には、手入れの行き届いた庭や教会があり、また周辺には、病院に通う患者や家族のためのホテルが数多くある。

 上の写真の、ハーマンホスピタルのCOLLEN PAVILIONは、この地域にある最も古い病院で、1925年の建物である。
 当時、ヒューストンには、スペイン建築の影響をうけたものが数多くみられた。この建物も、外観の装飾、白い壁に赤っぽい屋根、と、典型的なスパニッシュの影響がみられる。エントランス内部は、色彩を多く使ったタイル張りの装飾になっている。
 
 そして、この地域が、大きなメディカルセンターとして発展していくのは、1940年代からである。伊藤誠 著「アメリカの病院」(鹿島出版会)によると、綿商人で財をなしたM・D・アンダーソンが、利益を社会に還元したいと考え財団を設立したのが1936年、MDアンダーソンがんセンターが発足したのが1942年、また、同じころ、ダラスにあったベイラー医科大学のヒューストンへの移転計画が具体化したこと等が述べられている。


この時代には、メインストリートから垂直方向に、かし(OAK)の並木道が計画され、その近隣を発達させることとなった。今も、ライス大学のまわりなどで、大きなかしの並木が、夏の日差しを和やらげてくれている。
   これらの道には、公共の通路ということとは違う空間の役割もあった。単に「通り抜ける」という目的ではなく、住む人の「コミュニティ」の空間としての役割である。住宅地においてはコミュニティスケール(地縁的な地域社会、住宅地の大きさ)が考えられ、住宅の計画がされていった。

 MAIN沿い東側(美術館とライス大学の間)のREMINGTON通りに、その時代のまとまった家々があるが、柵や塀にかこまれていてあまり見えない、そ こからもう少し北の方向に行くと、道路から当時の家々の町並みの残る所がいくつかある。
 メインからBISSONETを東に進み、BISONETTとMONTROSEの角をもう少し東にいくと、南側にWEST 11TH PLACEという道がある。プライベートストリートの看板が出ていて、そこから南側に覗くと、その道の両側には家が数軒並んでいて、さらにその先は行き止まりになっているのがわかる。これはコミュニティスケールを考えた計画によるもので、この細いプライベートストリートをはさむ住宅地は、1920年、J.W.NORTHROPという建築家によるものである。
 プライベートストリートの入り口すぐ左の 1 WEST 11 PLACE(1925年)は、1920年~50年代に見られた、フレンチ・プロビンシャル・スタイル(FRENCH PROVINCIAL STYLE)である。
 フランスのカントリースタイル(小さい農場の家など)がベースになっていて、傾斜のある寄棟(よせむね)の屋根、フランス戸や窓(FRENCH DOOR,FRENCH WINDOW:ガラスの入った両開きの戸、または窓で、一階の窓の場合は、縦長いので人の出入りができることもある)などが特徴であるが、残念ながらこの家の戸にはシャッター(鎧戸)があるために見ることはできない。
 この、WEST 11 PLACEをもう少し東にBISSONETを進むと、南側(左手)に SHADOWLAWN CIRCLEがある。ここも11TH PLACEのような、コミュニティを考えたもので、その道に入っても他の道に通り抜けはできず、丸い土地をかこんだ道を回って戻ってくるようになっている。  その丸いアイランド状の土地と、その円の周りには、ゆったりした個性のある家々が並んでおり、現在は、1920年代の当時のものから、アメリカのカントリースタイルのもの、お城のようなもの、最近のポストモダンな家まで色々ある。
 アイランドの中の一軒、17 SHADOWLAWN CIRCLE(1926年)の、JOHN F.STAUBという建築家によるフランス風の建物や、円周にある、11 SHADOWLAWN CIECLE(1926年)の、ネオジョージアンスタイルの家などが、当時のものである。
 ジョージアンスタイルは、18世紀中頃のスタイルで、基本的に左右対称、家の中心に凝った古典主義の玄関などを持つものである。
 そこをさらに北の方にいくと、大きな並木道があり、その道の中に煉瓦の歩道がある、とても贅沢に空間を使った道路が、南北に平行してある。北側がNORTH BLVD. 南側がSOUTH BLVD.、その両脇には大きな家々がある。
1924年~28年頃に建てられた豪邸が並んでいて、1405 NORTH BLVD.のうすい緑の壁の家は、当時豪邸の設計を手がけたJOHN F.STAUBが、ヒューストンでの最初のデザインしたものである。
 STAUBは、後で述べるBAYOU BENDを設計した人で、この近郊のお屋敷を数多くてがけている。この建物は、コネチカットバレーコロニアルスタイルだが、STAUBは他にこの通りだけで、1505NORTH BLVD.のネオジョージアンスタイルの家(1927年)、1317NORTH BLVD.のフォーマルフレンチマノリアルの家(1930年)、1400SOUTH BLVD.の家(1929年)など、色々なスタイルを手がけている。


 この時代の住宅の中に入るチャンスは滅多にないが、この時代の豪邸をレストラン&プチホテルに改築した建物がある。  上の写真の「La Colombe d'Or」で、、Montrose と Harold の角、3410 Montrose Boulevardにある。この建物は1923年に建てられ、現在は1階部分がレストラン(何部屋かある)、メインの部屋には大きなマントルピース(暖炉の前の飾り)があり見応えがある。また、2階には宿泊できる部屋が5部屋ある。さらに3階はペントハウスで、パーティ、宿泊が可能ということだった。
 インテリアも各部屋工夫してあって、宿泊、パーティ希望などを検討していることを申し出れば見学させてもらえる。
 

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5 メインストリートと、近郊の発展(美術館と大学)

 1920年代、ダウンタウンからMAINを南に進んだところ、ファインアート美術館、メディカルセンター、ハーマンパーク、ライス大学の集まる地域は、ヒューストンの都市計画の中でも印象深いものであるといわれている。
*THE MUSEUM OF FINE ARTS (1001 BISONNET)  ファインアート美術館は、テキサスにおける最初の公共のミュージアムとして、1924年にこの地に建てられた。この時代の建物は、現在のBISONNET側のガラス張りの建物ではなく、今の入り口とは反対側にある、荘厳な白いギリシャのネオクラシカルスタイルの柱をもつ建物であった。1920年代のヒューストンは、このあたりが市街地の端っこだったそうである。

 この美術館の他にも、近隣のMAIN ST.には、美しいゴシックやロマネスクの教会が建ち並んでいる。  その後、何度か増築が必要になっていったが、現在の、BISONNET通りに面した現代的な建物は、ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1869)という著名な建築家によるものである。
 ミースは1938年、ベルリンからアメリカに亡命してきた建築家である。ドイツにはこの当時、数多くの優秀な建築家がいたのだが、ヒトラーは、インターナショナルスタイルの建築を、国籍不明のユダヤ的デザインだとみなし、数多くの建築家を弾圧した、ということだ。
 ミースは、アメリカにおいて、鉄とガラス、そしてコンクリートや石の壁を重要な表現要素として使ったスタイルを表現した。今、都市にある四角いビルはミースのデザインの延長上にある、といっても過言ではないくらい、ミースは現代の都市風景に大きな影響を与えた人である、と言われている。
 北側の2階建てのBROWN PAVILIONは、ミースの死後5年後完成した。ヒューストンのなかでもすばらしい現代建築の中の1つであるとされる。

*RICE UNIVERSITY(6100 MAIN ST.)  メインストリート沿いの ライス大学は、綿で材をなした、WILLIAM.M.RICEの寄付金で建てられた、現在南部の有名私立大学である。

 MAINと SUNSET STの交差にある、正門から入ると、1991年のヒューストンサミットの会場として使われたLOVETT HALLがある。
 建築当時はADMINISTRATION BUILDONGという名前の建物で(RICE UNIVERSITYもWILLIAM M RICE INSTITUTE、という名称であった)、LOVETTは最初の校長の名前である。
 現在は、建物をぬけると、広い中庭を4方向から建物が囲んでいる形になっており、大学の敷地全体は、校内を巡回バスが走っているような広いキャンパスになっているが、当時はこの建物だけしかなかった。

 LOVETT HOLLは、1912年ボストンの建築家RALPH ADAMS CRAM によって建てられた。CRAMは、ゴシックリバイバルの第一人者として知られていた建築家だった。しかし、彼はこのお得意のデザインは、暑くて広大なヒューストンには不向きだと考え、20世紀アメリカの折衷主義、ビザンチン、ベネチアン、北イタリアのディテール、で南部にふさわしいのゴシックの類似のものを表現した、とされる。
   蒸し暑くて広大な南部の土地に合うように、建物は、スクリーンのように薄く計画し、アーチや回廊に、風が流れるように考えた。
 現在、この建物は大学のオフィス等に使用されており、もちろんエアコンも入っている。

 LOVETT HOLLの表面には煉瓦、ライムストーン、色のついた大理石を使っている。この建物、は細部まで装飾が行き届いており、石の彫刻にはRICEのイニシャルのRがみられるほか、鳥やリス、花などの自然のもの、あるいは人の顔の彫刻があり、それぞれに表情がみられる。

 余談だが、ライス大学の売店では、ヒューストンサミットの絵はがきを販売していた。当時の日本の首相は海部首相であった。

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4 サムヒューストンパークに残る家

 SAM HOUSTON PARK(サムヒューストンパーク)はダウンタウンの西側、バ ファローバイユーのほとりにある、19世紀の終わりに出来たシティパークである。
 現在ここには、THE HERITAGE SOCIETYがあり、ヒューストンあるいは近郊からの歴史のある建物が移築されており、ガイドツアーで建物の中も見学することができる。また、ミュージアム、売店も併設されている。
 8つの建物があるが、うち1つは、移築でなく、オリジナルサイトにある。

*KELLUM-NOBLE HOUSEは、1847年に建てられた、この公園のなかで、オリジナルサイトにあるヒューストンで現存するもっとも古い家である。白い建物で、室内も質素に飾られている。冷房のない時代、暑いヒューストンでの風通しを考えた設計である。当時の家によく見られるように、階段が外につけられている。(節税の関係らしい)

*NICHOLS-RICE-CHERRY HOUSEは、1850年にニューヨーカーの EBENEEZER.B.NICHOLSによって建てられた、グリークリバイバル(正面の柱が象徴的)の黄色い建物である。
 1856年から1873年まで、ライス大学の創始者、WILLIAM MARSH RICEの家となった。
 もともとダウンタウンのコートハウスの近くにあり、超お金持ちなのにあまり大きい家でないのは(と言っても広いのだが)、すでに都心部の住宅の悩み、土地の狭さをかかえていたからだという。ガルベストンなどの豪邸にあるような広いボールルームはなく、来客のあるときには間仕切りをはずして使う、といったフレキシブルな使い方がされていた。外階段が節税になるのと同様、窓の数も課税対象になるので、一階の窓には工夫がされ、ドア扱いして節税できるようになっていた。
 1959年に、ここに移築された。

*STAITI HOUSEは、1905年に建てられた、石油パイオニアの家。
 かつての豪邸街WESTMORELANDから移築された。17室ある豪邸で、暑さ対策で風通しのいい半屋外(ベランダ)の夏用寝室もある。移築前は庭も広くすばらしかったそうである。著名な建築家フランク・ロイド・ライトの雰囲気のような(と案内のおばちゃんが言っていた)独特のデザインを持っている。
 1986年に移築された。

*YATES HOUSEは、JACK YATESという人が自分で建てた家である。彼は、プランテーションで働いていた黒人奴隷の子供であったが、そこの主人の子供と同年代であったこともあり、教育を受ける機会に恵まれたそうである。奴隷解放後の1870年、この家を建て始めた。この家は、黒人人口の増加と繁栄の様子を表している。彼は、ヒューストンにおいて、宗教的なリーダーでもあり、南北戦争後は、彼の民族の弁護人でもあった。歴史的地区FOURTH WORDから、1994年に移築された。

*その他の建物  ST.JOHN CHURCH(1891年、ドイツの農民たちによって建てられた協会 )PILLOT HOUSE(1868年にPILLOTによって建てられたビクトリアン中期のものである。98年の洪水で床上浸水し、壁や家具などに 損傷があったため、一時公開できなくなってしまった)THE OLD PLACE、 (1823年に建てられた小屋)、SAN FELIPE COTTAGE(外観は水色、シンプルな6部屋の小屋で、SAN FELIPE通りの南西の角に1868年に建てられたもの)である。

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3 ビクトリアンハウス:19世紀末~20世紀初頭の家々

 アメリカで、19世紀の家を紹介する雑誌などで「ビクトリアンハウス」という言葉をよく目にする。  さまざまな「ビクトリアンスタイル」の家は、ニューオーリンズやガルベストンなどの観光の名所にもなっている。
 ビクトリアンハウスは、一般的に複雑な装飾をもつスタイルで、例えば多様な外面の塗装、カラフルな壁の色(ピンクやブルー、黄色など)、左右対象でない正面、急勾配の屋根、また小塔などの装飾を用いている家、とされている。
 しかし、ビクトリアンスタイルの語源となった、イギリスのビクトリア女王の在位は長く(1840~1901年)、その間に色々なスタイルの相違が見られるために、ビクトリアンスタイルという分類は、ほとんど意味がないものだ、という意見もある。一方で、これまでは意味のない遺宝とみなされていたが、現在は賞罰を受けるに値する評価である、ともいう意見もある。少なくとも日本の「建築大辞典」にはこのスタイルについては載っていないようだ。

*でも「ビクトリアンスタイル」という分類が存在しないのなら、この「派手派手」な家々を一体何と分類すればいいのだろう?「ビクトリアンハウス」とう言葉が学術的に意味がないものだとしても、これらの家々に対して「ビクトリアンハウス」以外の言葉は思いつかないのだが...個人的には。
 さて、ヒューストンでは、THE HEIGHTS(ハイツ)と呼ばれる地域(現在 MEMORIL DR の北、45の西側)に、19世紀末から20世紀始めの家々がいくつか残っている。ここは古くから線路の敷かれていた地域で、当時の労働者階級の家々のある地域であった。
 現在のTHE HEIGHTSは、昔の労働者階級の人々や中米およびメキシコ系アメリカ人、相対的に安い家を求めた若い家族などが混在しているところであり、そして芸術家(住居、アトリエなど)が多く住んでいるところである。  この地域を南北に走る、HEIGHTS BLVD沿いに、19世紀末の建物をいくつか見ることができる。
 また、ヒューストンで現存する最も古い家並みが見られるのは、この区域の南東、ダウンタウン寄りにある、Sixth Wardという地区である。  この地区は、MEMORIAL DR.と HOUSTONの交差しているあたりから西側、 LUBBOCK、KANE、DECATURいう通りのあたりである(MEMORIAL DRを走ると小さい看板がある)。ここには、19世紀末から20世紀初頭の、さまざまな色、形のビクトリアンハウスが現役で(なかには空き家もあるが)、ひっそりと建っている。ここは人の住居であり観光施設ではなく、中を見ることはできない。
 先に述べた、THE HEIGHTSは労働者階級の住居が多いため、敷地も小規模の家が多いが、この地域とは対称的に、当時のお屋敷街も少しばかり残っている。
 19世紀末、ダウンタウンの路面電車のルートは、郊外の方にも少し伸びていて、今のダウンタウンの少し西側、MONTROSEを北に、59を超えて右側(西側)のあたりにまで来ていた。そして、その区域に今も20世紀初頭の古い家々が少し残っている。
 MONTROSEをW.ALABAMAで西側に行き、GARROTを北側に曲がり、WESTMORELAND (W.ALABAMAから2本北側)の通りにくると、お屋敷街の”お決まり”である、道幅が広く、敷地が広く、道から家までの距離がある、という区画がある。そして見るからに古い大きなお屋敷が建っていて、なかなか雰囲気をかもしだしている、と一瞬思うのだが、よく見れば廃屋もあり、まわりの雰囲気も荒涼としている感がある。

 角にある建物、201 Westmoreland Avenue(1905年)は、Wilmer Waldoによるもので、かつてRusk AV.とCaroline st.のところにあった1886年建造の彼の母親のビクトリアン様式の建物をここに移築したものである。移築する際に、高い塔をはずし、木を用いたポーチとアーチのある煉瓦作りのロッジア(少なくとも一方が吹放しになっている廊下)で近代化させたという。Waldoの家族は1960年代までここに住んでいたそうだ。

   その隣の、やや廃虚になりかけている白い建物、215 Westmoreland Avenue(1907年)は、コロニアルリバイバルの壮大な建物で、この2軒 が、この通りでは大きな建物である。家の前の歩道には、乗り物から降りてくる時に使われたステップもあり、当時の暮らしを感じさせる。  この付近には、他にもビクトリアンスタイルの古い建物や、新しいものでも町並みを意識して、ビクトリアン風に建てられたものがある。

 また、この少し北側のLOVETTという通りの両側、COURTLANDT PLACEに、20世紀初頭の家が多く残っているが、この通りには1988年に柵と門が設けられており、残念ながら入ることはできない。

 正直にいうと残念ながらヒューストンでは、この時代のまとまった町並みをあまり楽しむことはできない。  しかし、19世紀末のビクトリアンハウスを楽しむ絶好の場所が近くになる。車で南東へ1時間、ガルベストンまで行けば、超豪邸から小さいものまで多くの建物が現存し、BROADWAY沿いの豪邸は一般公開されている。時代はヒューストンよりやや古く、1950年代のものから存在している。

 BUSHOP'S PALACEは、ガルベストンにあるお屋敷の中から、アメリカ建築協会によって「屋外の建築物100選」の1つに選ばれた、BUSHOP'S PALACEである。
1886年に、ガルベストン基金、コロラド&サンタフェ鉄道を援助した 会議の代表的なメンバー、裕福な弁護士であったCOLONEL WALTER GRESHAMに よって、およそ250000ドルをかけて建てられ、当初、GRESHAM'S CASTLEとして知られていた。
有名な建築家、NICHOLAS CLAYTONによるデザインで、あらかじめカットされ形成さた、テキサス産のグラナイト(花崗岩)、白いライムストーン(石灰岩)、そして赤いサンドストーン(砂岩)が使われている。
また、多くの珍しい木材、ローズウッド(紫檀)、サテンウッド(東インド産のシュスボク)、白いマホガニー、アメリカンオーク(樫)、メイプル (楓)がインテリアに使われ、手作業による加工がされている。
大きく重いスライディングドアがユニークで、めいめいのドアの木の表面素材を部屋にマッチさせている。
COLONEL GRESHAMは、世界中から購入した暖炉、マントル(暖炉前の装飾)を用い、そのまわりに部屋を作ったそうだ。
ボールルーム(舞踏の部屋)のマントルは、1876年のフィラデルフィアのワールドフェアで一等をとったものだそうだ。
ミュージックルームのマントルと暖炉は、純銀で作られている。
また、輸入されたすばらしいものとしては、ベニスからのクリスタルのシャンデリア、ロンドンからのダマスコ織の壁カバー、イタリアからの大理石の暖炉がある。
1923年、この家は、ガルベストン・ヒューストンの主教管区、BISHOP CHRISTOPHER BYRNEに購入され、BISHOP'S PALACEとして知られるようになっ た。
BISHOP CHRISTOPHER BYRNEは1950年に亡くなるまでここに住んでいたという。

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2 シカゴ派~1920年代のビル

このマーケットスクエア歴史地区を見ると、色や装飾が派手な、古い建築様 式の復活したもの他に、あまり派手な装飾がされていない、けれども歴史を感 じる(古そうな)シンプルなビルもある。

 このタイプのビルは、「シカゴ派:CHICAGO SCHOOL」の建築家によるものであ る。もちろんシカゴ、はイリノイ州のシカゴのことである。   シカゴは、まさにこれから商業都市として発達しようとしていた1871 年、大火事で市街地のほとんどを失ってしまった。焼け野原の上に「近代的で 経済的なオフィスビル」を、ということで、この時代の新しい建築材料や技術 を駆使して「高さ、鉄骨骨組構造、エレベーター」を備えた高層建築がうまれ ていった。 シカゴ派の特徴は、鉄骨構造の開発と、構造に対応する明快な建 築表現(つまり、構造上必要な形を大切にして、余計なものはあまりつけな い)である。新しい材料や構造をいかした建築の表現は、全く新しい時代のデ ザインであった。(ただ、近代的ビルを見慣れていると、”ただ”のビルにし か見えないかもしれないのだが...)

 シカゴは高層建築(摩天楼)発祥の地であるのだが、その建築のスタイル が、同じように商業都市として発展しつつあるヒューストンにもやってきた。 いくつかのシカゴ派のスタイルをもったビルがみられ、19世紀後半の、古い 建築様式の装飾を用いたビルとは、装飾、高さなどの点で、よい対照を見せて いる。

 405 Main streetの、Scanlan Building(1909年)=上の写真、はシカゴ派の有名な 建築家バーナム(Daniel H.burnham)によるものである。  バーナムは、シカゴのモナドノックビル、また「鉄骨とガラスの篭」で知ら れる同じくシカゴのリアイランスビル(1895年)で有名な建築家である。  1階は、クラシカルな装飾、2階はシカゴ窓(中央の広い部分は開閉でき ず、両側の狭い部分は上げ下げ窓、という様式)、一番上部の窓の間には、テ ラコッタの花輪の装飾がおかれている(テラコッタは、酸化腐食と火災から鉄 材を保護する役割があった)。屋根のコーニス(最上部のつきだした水平帯) は今は取り除かれている。11階建てで、建設当時は、ヒューストンで一番高 い建物だった。  このビルは、まだ現役で使われているため、あまり古さは感じさせない。  ちなみに、この場所は、1838年に完成されたサムヒューストンの公邸が あったところで、その「プレジデントハウス」と呼ばれた建物は、1839年 のオースチン首都移転のあと、ただの小売店になってしまったそうである。

 その他には、 913 Frankrin Avenue の、Southern Pacific Building (1911年)がある。  シカゴの建築家Jarvis Huntによる、9階建てのビルで、シカゴ派の特徴の他 に、ルネッサンスパラッツォもモデルになっている。HUNTの進歩的な解釈はと ても抽象的で、明白なクラシカルなディテールは少ないが、2階の下のモル ディング、最上部の彫りのほどこした装飾などがある。  このL字プランのビルは鉄筋コンクリートの構造であり、ヒューストンでの このような近代的な高いビルで、このビルが冷房(REFRIGERATED AIR VENTILATION SYSTEM)を備えた最初のものであった。

 さて、先に述べた”シカゴ派VS古典との折衷主義”についてであるが、この 時代のアメリカでは、「シカゴ派によるシンプルな建築デザイン」の他に、 ニューヨークを始めとする東部での「古典主義建築の伝統を再創造する折衷主 義」という、建築の大きな動向が2つ存在していた。  要約すると、

初期近代建築 VS 古典主義建築
進歩主義 VS 伝統主義
シカゴ VS ニューヨーク
ということなのだが、なんと、優れた建築を生み出したシカゴ派の代表的存在 バーナム自身が「シカゴは文化が遅れていて、東部の建築家の方がシカゴ派の 建築家よりも高い建築文化を有している」と信じていたらしく、アメリカは、 以後古典(折衷)主義への傾倒が強まっていくことなった。首都ワシントンの 整備はその例で、これにはバーナム自身も携わっていた。  そういうこともあって、シカゴ派の建物は姿を消していき、シンプルで近代 的なデザインは、一旦姿を潜めることとなった。

 その後、1920年代には、ビルは技術も向上し、高層化していった。  その時代のものとしては、808TRAVIS STREETの、NIELS ESPERSON BUILDING (1927年)、このビルは屋上に、まるで議事堂のようなクラシックなモ ニュメントをもっている32階建てのもので、MELLIE KEENAN ESPERSONという 女性が、不動産屋であった彼女の夫のメモリアルとして建てたビルである。  また、712 MAIN STREETのGULF BUILDING(現:CHASE BANK BUILDING (1929年))は、36階建てで、1929年から1963年までの長き 間、ヒューストンで一番高いビルであった。アールデコ(1920、30年代 のデザインの動向、一種の混合様式)のディテールの見られるビルである。  どちらも、現在は夜の照明がきれいで一目をひく。

 ダウンタウンの南側には、ベトナム人街があります。MILAM とELGIN(北側)の角にVAN LOCというレストランがあり、ここの「43番」がおいしいです。そうめんみたいな麺にうすぎりの味付き牛肉、野菜などが載っており、かけつゆ(赤いけどあまり辛くない)をかけて食べるというものでした。
この通りを南下すると、MAI'S RESTAURANTというところもあります。ここはベトナム料理ですが、メニューも店内も中華料理店の感覚でした。

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1 ヒューストンという都市の誕生

現在のヒューストンは、人口が約170万人の全米第4位の大都市である。 この大都市の誕生にさかのぼってみると、それは1836年のことである。この年はテキサスにとっても、とても重要な年であった。
 ヒューストンから車で西に3時間、サンアントニオに「アラモの砦」という 歴史的な場所がある。このアラモの砦は、もとは1718年にスペイン人に よって建てられた伝道所だったが、ここが今、聖地のように扱われるのは、メ キシコから独立しようとしたテキサス軍がたてこもり、圧倒的なメキシコ軍の 攻勢を前に、独立軍の指揮官トラビスや、伝説の勇者デイビークロケットを含 む185人(資料によって人数が違う)の独立軍全員が、1836年3月6 日、まさにこの場所で玉砕したからだった。
 そして「リメンバーアラモ」を合い言葉に、46日後の4月21日、ヒュー ストンの東、サンジャシントの戦いで、サム・ヒューストン将軍がサンタ・ア ンナ将軍ひきいるメキシコ軍を破り、テキサス共和国が設立され、初代大統領にサム・ヒューストン将軍が就任した。

   さて、テキサス共和国の最初の首都になったのがヒューストンだった。しか し、その劇的な独立から9年後には、財政上、経済上の理由でアメリカ合衆国 に併合され、今に至っている。

 さて、アメリカの南部の町は、それ以前から、綿花、砂糖などの輸送、商売 の目的で、海路または川路からひらけていた。17世紀から植民がはじまり、 1718年にはルイジアナにニューオーリンズが誕生した。さらに開拓者たち はルイジアナから西に、と向かおうとしたが、ルイジアナからテキサスへは、 陸路だと途中、湿地や松の茂みという自然の障害があり困難であったので、新 しい港(ビーチヘッド)を求めてガルベストン島に来た。そして、ガルベスト ンから内部に入るルート、つまりガルベストン湾からバファローバイユー (川)を45マイルほど内部にさかのぼったところにあったのが今のヒュース トンだった。

 1836年に、ニューヨーク出身のアウグスツ・チャプマン・アレンと、ジョン・カービィ・アレンの兄弟が、この新しい共和国の首都の土地、66424 エーカーを9428ドルで購入し、ヒューストンの町づくりが始まった。  ダウンタウンの北側、MAIN と COMMERCE の角の川沿いに、ALLEN'S LANDING PARK,アレン兄弟上陸の地、がひっそりとある。

   もっとも、ヒューストンの北を流れる川、バファローバイユーはここまでさ かのぼると幅が狭く、砂州や切り株や根っこも多くて、水路として最高という わけではなかった。ガルベストンから内陸に来るルートの途中に(ダウンタウ ンから8マイル下流)、もう1つ、ハリスバーグという村があったのだが、独 立戦争の際、スペイン軍に焼かれてしまってここにはアレン兄弟は上陸でき ず、半ば仕方なかったのか、現ヒューストンの地までさかのぼって来たのであ る。
 バファローバイユーは、今でも小さな(どぶ)川としか思えないのだが、 1839年の旅行者の記録には、「蒸気船(スチームボート)がヒューストン からガルベストンまでほとんど毎日走っている」と記されている。
 さて、テキサス共和国の首都としてスタートしたヒューストンだったが、雨 で街が泥だらけになることか、蒸し暑さとか、蚊の多さとかで(これは住むと 納得してしまうかも)、早々に首都はオースチンに移るということになってし まった。けれども、すでに商業の中心としての位置は確立しており、街は順調 に成長を続けて、1853年には鉄道も敷かれた。1873年の写真を見る と、碁盤の目状に整備された道、川には蒸気船、線路を走る蒸気機関車。19 世紀の終わりには路面電車も走っている。
 20世紀の初めになると、近郊で石油の発見もあって、商業の中心としての 地位をますます高めていった。

 ベビーヒューストンの頃の建物で、現存しているものもかなりある。「地球 の歩き方」にも、ダウンタウンの北側について「マーケットスクエア歴史地 区、1850年代から1920年代の建築物が現存するところ」と書いてある が、それが集中しているダウンタウンの北側は、空きビルが多いしかなり雰囲 気は良くないので、それなりの気構えが必要である。

 ダウンタウンにある、最も古い商業用の建物は、1861年に建てられた、 Kennedy Bakery Building (現 La Carafe :813 CONGRESS )で、マーケットスク エア(現公園)の北側にある、小さくて狭い2階建ての建物である。  家主はアイルランドから移民したJOHN KENNEDYで、インディアン交易、製 粉、農園主、パン屋などを手がけており、南北戦争(1861~65)の間に は、南部の連合軍に、ハードタック(かたやきビスケット)の供給をしてい た。  家には、18世紀後期のニューオーリンズの建物によく見られる、クレオー ルスタイルの鉄レース加工が今も少しばかり残っている。
 ニューオーリンズでは、18世紀末の2度の大火の後に、当時統治していた スペイン人によって、通りに張り出した2階のバルコニー、鉄レース加工の フェンス、パティオ(中庭)が特徴の家々によって町並みが作られており、こ この鉄レース加工もその影響をうけたものと思われる。

 また、19世紀後半には、ビクトリアンスタイルといわれる、装飾に古い建 築様式を様々に用いた華麗な建物が好まれていて、ダウンタウンにもそのよう なビルがいくつか残っている。

 先のKennedy Bakery Buildingの建物の近く、TRAVIS通りを北に行くと、 William L.Foley Building(214-218 travis)がある。当時ヒューストンで有名 な建築家Eugune T.Heinerによるもので、1889年の3階建ての建物だが、2 度の火災でダメージを受けてしまい、今は歩道に屋根のようなものがついてお り、道の反対側からしか建物の概要は見えない。  ちなみにFOLEYは、今や州の最大級のデパート、バーゲンシーズンにはお世話 になっているFOLEY'Sの創始者である。  もう少し北に向かうと、1884年のHouston Cotton Exchenge and Board Trade (202 Travis st.Travis:TravidとFranklinの角にある)がある)=上の写真)。  綿花の交易所というだけで、地理的・歴史的なものを感じるこの建物は、ハ イビクトリアンの装飾、色彩などがひときわ目立つ建物である。  William L.Foley Building と同じ、Eugune T.Heinerによるもので、当時の シカゴの建築のように1階が高くなっており、ハイビクトリアンのルネッサン スパラッツォ(パラッツォはイタリア語の宮殿の意)の装飾であるが、形、色 彩、材質、濃淡を引き出すために、習慣的なクラシカルなディテールとは少し 変えてある。赤い硬い煉瓦、白い石灰石の装飾の対比がとても印象深い建物で ある。  最初は3階建てだったが、1907年に4階が増築された。 (余談だが、ガルベストンのダウンタウンに、このビルに雰囲気が「そっくり さん」がいて、調べてみると、同じEugune T.Heinerが、1882年に建てたも のだった。ガルベストンのダウンタウンはヒューストンより19世紀の建物が 多く残っており、当時の面影をよく残している。なお、「そっくりさん」は、 ガルベストンの220 22nd Streetの、Kauffman & Runge Buildingである。)

 この他に、メインストリートには、当時の銀行などの金融関係の建物で、 19世紀末から20世紀初頭の建築物が残っている。

 メインの北のほうからみてみると、(以下の右左は北から見て)

116-120 Main Street(右側) Commercial National Bank Building(1904年) franklinとの角にある、薄茶色に窓枠が白の煉瓦の建物。6階建て。

202 Main street(右側) Houston National Bank Building(1924年) 白く壮大な柱が印象的な建物は、この地区に建てられた中では新しい銀行。

301 Main Street(左側) Sweency,Coombs & Fredericks Building(1889年) congressとの角にある、白壁に緑のアクセントをもつ3階建ての細い建物。角 の小塔が印象的で、2階3階の窓はアーチ型になっている。

320 Main Street(右側) Kiam building (1893年) Prestonとの角にある、5階建ての赤煉瓦の建物。 隣側に、1926年の映画館だった建物がある。

また、メインからcongressを少し東に入った Courthouse square のHarris county courthouse(1910年) 円柱とドームが印象的な荘厳な建物。 メインからprarieを西に少し入った

910 Praire AvenueのHenry Brashear Building(1882年) 小さい3階建ての建物だが、華麗な化粧しっくいが印象的。  メインのもう少し南

Main st.at Texas st.のRice Hotel(1913年) 1913年にオープンし、大統領クラスも宿泊するホテルだった。ケネディも 1963年11月21日ここに宿泊し、翌日暗殺の舞台となったダラスへ向 かった。1977年にホテルは閉められ、今は空きビルになっている。

 このようなビルが、その時代の姿を残して現存している。

*こんなところで食べました
ヒューストン発祥の地に近い、歴史的建造物の中に、THE SPAGETTI WAREHOUSEというスパゲッティ屋さんがありました (MAINを北上してCOMMERCE(川の手前)で左折)。ダウンタウンは平日駐車料金が高いけれども、土日は路上のメーターのところはタダなので、土日はそこを利用しました。スパゲティがサラダ、パンつきで5ドル前後から。キッズメニューもあり。

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